2015年11月
2015年11月06日
キリスト信仰、教会へ
信仰者として認めてもらえるならば、そこに至る 必然性があったことは確かです。 遊びまわっていた学生時代ですが、親友を通して 接触のあった創価学会という信仰の世界。 5年ほど身を置かせて頂きました。 その教義や友達、集い、そして勤行の力を知ったこと。 しかしまた、矛盾と限界を感じたことも事実。 最終的に学会との決別の決断は、 結婚というとても利己的な理由ではあったのですが、 口にしてはならない決定的な方法で・・、 学会との繋がりを断つことになりました。 そして、結婚と離婚がありました。 離婚調停の長い争い。 母の死・・・。キリスト教に求めた救い。キリストの福音を述べ伝えなさいという 聖書の教えは、信仰者としては義務であり、また 人々を救う手段でもあり、それは自分にとっての喜びに も結び付いています。 ただし、今の自分の生き様は、矛盾と偽善に満ちている こともまた、明確ではあるのです。
マタイ 25章から (聖書の言葉)
難しいことはなにもないのです。
十字架の救いに対して、感謝と感動を持っているか。
(十字架の救いとは、イエスキリストが私たちの罪の救いの
ために、十字架に掛かってくれたこと。)
私のような、ばかで性悪な者を、本気で愛してくれているのが
分かるから、嬉しくてしょうがないんです、と牧師。
「すると、王は彼らに答えて言います。
「まことにおまえたちに告げます。おまえたちが、
この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、
わたしにしなかったのです。」」(マタイ25:45)
救えるのに救わないこと。簡単なことを怠って、救いの手を
控えていること、最も小さい者にしないことは、
主イエスにしないことと同じだと言っています。
そして、この罪は永遠の刑罰につながることだというのです。
価値のあることをしましょう。価値のないことにいつまでも
捉われていないで、本当の価値を見つけて下さい。
私に本当の価値が見つけられるのだろうか。
しかしこれは、到達すべき最終ステップだといえる。
その前に大切なことがあります。それは、
お従いする者になることですと牧師は教える。
お従いするとは、聖書の教えに従って生きることである。
このこともまあ、ちょっとやそっとでできることではないの
ですが・・。
そう考えると、永遠の命を頂くということは・・。
第一ステップで行ったり来たりしている身として、
ゴールをめざすためにも、大いなる意味を持つという他はない。
マタイ20:29~34 こころの盲を癒される方
主は、立ち止まって2人の盲いを憐れみ、彼らの目に触られた。
するとすぐさま、彼らは見えるようになった。
私たち、いや私も盲い。どうか、わたしの目が開かれるように
して下さい。
主イエスは、福音を伝えなさいと命じられました。
私たちは、その福音を伝え、そのことによって人々を救いに導き、
そして、わたしたち自身が大きな恵みを手にすることができる。
私たち(私)はすでに、キリストを信じることによって、
救われましたが、更に大きな輝きを得ることができる、
ということです。
科学はどこまで真理をつかみ取ることができるでしょう。
どこまで自然の摂理を解き明かしていこうと、
その奥に立ちはだかる壁があるのです、きっと。
しかし、主イエスの真理は、すべてを凌駕していると
思いませんか?
先が楽しみだ。
マタイ26:57~68 人の妬みによって裁かれる神の御子キリスト
裏切りによって、ついにその時はきた。イエスは大祭司カヤパのもとに
引き出された。祭司長らと全議会は、イエスを死刑にする為に、
偽証を集めようとした。最後に呼ばれた証人がこう言う。
「この人は、「わたしは神の神殿を壊して、
それを3日のうちに建て直せる。」と言いました。」
これは、主イエスが十字架につけられ、3日目に
復活する、そのことを意味しているのだが、知るべくもない。
「人間は、傲慢になると目が見えなくなってしまう。傲慢になると本当に
恐ろしい。」と牧師。
たくさんの偽証者、大祭司らのねたみ、そねみや憎しみの中、
主イエスの言葉、 「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに
言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、
天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
(26:64) 彼らは、イエスにつばきをかけ、殴りつけ、
また平手で打った。
不信仰者の私は、主イエスの神のみわざに疑問を持ち、傲慢になる。
こんなに生き生きと、希望のうちに自分の力で生きているぞと。
けれど、このまま傲慢で不信仰で、自尊心に満ち、結果がついて
来れば良いが、世の中、甘くはない。
夢破れ、倒れた時に、誰が救ってくれるだろう。癒してくれるだろう。
過去の自分を忘れている。喉元すぎれば何とやらだ。
時間の止まった日、心の闇
真夏の暑い夜だったような気がするが、そんなに
暑かったのかどうかは定かではない。
ダイニングルームのちょっと固い板の間に背中を
押し付けて大の字になっていた。とても気持ちよかった。
それと、何となく幸福感を感じていたような気もする。
自分は彼女を愛しているし、彼女が自分のすべての
ような気がしていたんだと思う。
そのことで、自分のすべての失敗は報いられ、
これからもそのことによって、幸福のすべて
を見い出そうと思った。それが、間違いだった。
彼女は、台所に立って、くつろいでいる私に向かって、
何か罵詈雑言を浴びせた。
その言葉が何だったのか、今となっては記憶の
闇の底だ。しかし、その言葉で私の幸福感は、
理由のない怒りに変わってしまった。