2016年01月
2016年01月01日
ヨハネ 8:25~30 上から来られた方とは (聖書の言葉)
「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(8:24)この言葉は、私に対するおどしであろうか?だとしても真実であるならば、受け止めて自分の問題に対処しなければならない。さもなければ、すべてをキリストに預け、キリストの愛で包み込んでもらうしかないだろう。
主は、牧師が19歳の時、主の十字架の意味を、彼女に示された。罪を赦すために、主は十字架の刑につかれた。彼女はその愛に感じ、その身をお捧げする覚悟をする。家は裕福な地主で、檀家としても責任ある立場であった。彼女の心はもはや、キリストの中にあった。片道16kmの教会への道のりも、問題ではなく、毎日通いつめた。雪深い豪雪の地であったが、教会通いの足取りは、雲の上を歩くごとく軽かった。その後、伝道者として福音を伝える役を担うことになる。その活動ぶりはあまりに激しく、隣村にも噂は伝わった。
神学校も卒業し、たまたま帰郷していた時のこと、訪れた薬売りのおじさんがこうきりだした。「この村には、キリストきちがいの娘さんがいたそうだが、今はどうしているだかね?」彼女、「はははー、それは私のことですよー。」おじさん、「えー、ほんとかねー。」と言ってお互い笑いあったという。村には、初めての伝道所もでき、やがて教会もできてゆく。
「命に至る門は狭く、滅びに至る門は広い。狭き門より入れ。という教えを忘れてはなりません。私たちは福音を伝えていかなければなりませんよ。救われた感謝と喜びを、家族にも隣人にも伝えなければなりませんよ。 」
主の愛に初めて目覚めた日から、60余年の月日を経て、埼玉の地、大和田教会で今も弁をふるっている。時に、その説教には厳しい口調とともに福音伝道の義務を、聖書のみことばと共に激しく問いかけてくる。
すっかり白く刈り込んだような頭髪、メガネのふちが説教台の向こう側で、光ってみえる 。11月も下旬、寒さも増してきた。