今日の説教(新約聖書)

2016年01月10日

ヨハネ 7:10~24 (聖書の言葉)

 「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし
自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、
その人には不正がありません。 (7:18)
 エルサレムでは仮庵の祭りが近づいており、イエスの
兄弟たちはイエスに向かって、「あなたがしているわざ
を見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きな
さい。」と言ったのであるが、イエスは「わたしの時はま
だ来ていません。」と拒絶した。しかし、イエスは内密に
上って行かれた。そして、宮に入り彼の教えを始められ
た。ユダヤ人たちはイエスの教えに驚かれた。彼は
正規に学んだことがないはずであったからだ。
イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、
わたしのものではなく、わたしを遣わした方の
ものです。」(7:16)
 説教。愛されている福音の恵みになぜ感動できない
のか?それは、自分の罪が見えていないからです。
自分の罪が見えないから、祈らなくなります。
聖書を読む、祈る、感謝する。この3つのことは、
生きることの根本ですよ。悪魔につかまらないように、
起きたらまず、聖書を読んで、お祈りしなければなり
ません。クリスチャンとしての基本ですよ。悪魔が手を
叩いて喜ばないようにしなければなりません。聖書を
通して神は、その人の魂に語りかけます。この3つの
ことをおろそかにしなければ、あなたは必ず実を結ぶ
でしょう。福音を語れないのはなぜでしょう?福音が
その人の心を支配していない、その人の心には命が
ない。クリスチャンは、他のことはどうでもいいのです
よ。福音だけは語らなくてはなりません。クリスチャン
としての義務なのです。再臨の時、あなたは天国へ
行きますか?それとも燃える炉の火に永遠に焼かれ
たいですか?

christ7bouhan at 20:46コメント(0) 

2016年01月01日

ヨハネ 9:1~12 (聖書の言葉)

 「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」イエスはこう言ってから、地面につばをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると見えるようになって、帰って行った。(9:4~7)この盲人だった人は、イエスといういのちある方に出会って本当に幸運だった。

christ7bouhan at 20:35コメント(0) 

ヨハネ 8:25~30 上から来られた方とは (聖書の言葉)

 「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(8:24)この言葉は、私に対するおどしであろうか?だとしても真実であるならば、受け止めて自分の問題に対処しなければならない。さもなければ、すべてをキリストに預け、キリストの愛で包み込んでもらうしかないだろう。
 主は、牧師が19歳の時、主の十字架の意味を、彼女に示された。罪を赦すために、主は十字架の刑につかれた。彼女はその愛に感じ、その身をお捧げする覚悟をする。家は裕福な地主で、檀家としても責任ある立場であった。彼女の心はもはや、キリストの中にあった。片道16kmの教会への道のりも、問題ではなく、毎日通いつめた。雪深い豪雪の地であったが、教会通いの足取りは、雲の上を歩くごとく軽かった。その後、伝道者として福音を伝える役を担うことになる。その活動ぶりはあまりに激しく、隣村にも噂は伝わった。
 神学校も卒業し、たまたま帰郷していた時のこと、訪れた薬売りのおじさんがこうきりだした。「この村には、キリストきちがいの娘さんがいたそうだが、今はどうしているだかね?」彼女、「はははー、それは私のことですよー。」おじさん、「えー、ほんとかねー。」と言ってお互い笑いあったという。村には、初めての伝道所もでき、やがて教会もできてゆく。
 「命に至る門は狭く、滅びに至る門は広い。狭き門より入れ。という教えを忘れてはなりません。私たちは福音を伝えていかなければなりませんよ。救われた感謝と喜びを、家族にも隣人にも伝えなければなりませんよ。 」
 主の愛に初めて目覚めた日から、60余年の月日を経て、埼玉の地、大和田教会で今も弁をふるっている。時に、その説教には厳しい口調とともに福音伝道の義務を、聖書のみことばと共に激しく問いかけてくる。
 すっかり白く刈り込んだような頭髪、メガネのふちが説教台の向こう側で、光ってみえる 。11月も下旬、寒さも増してきた。



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2015年11月06日

マタイ 18:15~20 つまずいている人に (聖書の言葉)

今日の礼拝の説教テーマは「つまずいている人に忠告する。」(マタイ18:15~20)です。
 「まことに」とイエス様が告げられている言葉は、「注意して聞きなさい。」という意味で重要です。つまずいている人、たとえば教会へ来なくなった兄弟姉妹の変化に、気づいても知らんぷりしていたということがなかったでしょうか。兄弟姉妹のことなんて、どうでもよいと思っていませんか。つまずいてしまっても、自分の自尊心が、自分や兄弟姉妹の悔い改めを赦さない人が多いのです。
 「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行ってふたりだけのところで責めなさい。」(マタイ 18:15)
 イエス様の十字架に感謝できなくなって、いわば、心が麻痺してしまったことは、神を敬わなくなったことは、大きな罪です。クリスチャンは魂に命を与えられた者です。ですから、魂にも、ご飯を食べさせてあげなければ死ぬのです。
 ところで、自分はといえば、聖書のみことばの光で、自分の信仰を照らして、見直しているのでしょうか。十字架の恩を忘れ、知らない間に傲慢になっていないだろうか。自分自身の罪が見えているのかどうか、真剣に考えてみなければならない。
 その上で、兄弟姉妹とともに再臨を迎えたときにイエス様にお会いしたい。最後の審判では、燃える炉の中に投げこまれることがないような信仰者でありたいと思うから、柔和な心で兄弟姉妹の罪について忠告してあげるのです。

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christ7bouhan at 21:08コメント(0) 

マタイ 25章から (聖書の言葉)

難しいことはなにもないのです。
十字架の救いに対して、感謝と感動を持っているか。
(十字架の救いとは、イエスキリストが私たちの罪の救いの
ために、十字架に掛かってくれたこと。)
 私のような、ばかで性悪な者を、本気で愛してくれているのが
分かるから、嬉しくてしょうがないんです、と牧師。
 「すると、王は彼らに答えて言います。
「まことにおまえたちに告げます。おまえたちが、
この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、
わたしにしなかったのです。」」(マタイ25:45)
 救えるのに救わないこと。簡単なことを怠って、救いの手を
控えていること、最も小さい者にしないことは、
主イエスにしないことと同じだと言っています。
 そして、この罪は永遠の刑罰につながることだというのです。
価値のあることをしましょう。価値のないことにいつまでも
捉われていないで、本当の価値を見つけて下さい。
 私に本当の価値が見つけられるのだろうか。
しかしこれは、到達すべき最終ステップだといえる。
 その前に大切なことがあります。それは、
お従いする者になることですと牧師は教える。
お従いするとは、聖書の教えに従って生きることである。
 このこともまあ、ちょっとやそっとでできることではないの
ですが・・。
 そう考えると、永遠の命を頂くということは・・。
第一ステップで行ったり来たりしている身として、
ゴールをめざすためにも、大いなる意味を持つという他はない。



christ7bouhan at 21:07コメント(0) 




ギャラリー
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  • 「福音は語られているか (金田福一)」より 八(前半部)
  • 一患者の詩 (心と神)
  • マタイ 18:15~20 つまずいている人に (聖書の言葉)
  • マタイ26:57~68 人の妬みによって裁かれる神の御子キリスト
  • 「言葉を失った証し人」より (キリスト信仰)





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